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AIで仕事がすべて終わる
現在の問題点→AIで暇
AIの発展に伴って、順調に仕事の量が減ってきている。そこで問題となっているのが暇だ。
Google検索が社会に普及していっていた頃に似たような議論があったのを思い出す。以前は図書館にまで調べに行っていたのに、今はWikipediaで済ませてしまう、みたいな話だ。今時代はタイパやコスパ、情強・情弱みたいな概念があったように思える。
ひるがえって現在はというと、AIに聞けばなんでも答えてくれるし、寝ている間にも仕事をしてくれるしで、何かとタイパやコスパを比較することすら無意味に思える。何をなぜするのか、というのがより一層重要になってきている。
Google検索と図書館はまだ対立軸として成り立っていたが、AIと図書館は同じ軸上には無い気がしている。図書館はより一層趣味性が強くなっていると思う。
とっちらかってきたが、結局のところ、AIによって一瞬で作業が終わってしまうため、他にやることが特に無いという問題が発生している。
暇だから現実なのか?
フィジカルAIがなんとなく日本でやっていくしかないものとして扱われている。とはいえ、フィジカルでやれることってそんなにあるんだろうか?という疑問もある。
人間にやれることは究極的には意味づけだけになるというのが結論だが、まあ、経済やビジネスで考えたときに、それだけで価値を生み出すことは非常に難しい。ブランド品を作るみたいなものだ。とはいえ、ブランド品ももともとは品質が先であった。
品質が無いのに意味付けをするってのは可能なのか? 一応可能っぽい事例はいくつかあるが、狭き門すぎる気もしている。それができる、できないは特性によるし、その特性が無いのにやれるほどやる気が出るかと言われたらこれも微妙だ。
プロジェクト
プロジェクトを立ち上げる方向で考えるしかないかもしれないが、プロジェクトというのも難しい。今までいくつか考えてきたものの、結局は続かない。本当の意味でやりたかったり、やらなければいけないものではないからだろう。
しかしながら、暇を潰せるのは何らかのプロジェクトだけだ。正直それはなんでもよい。フィジカルな旅行であってもよいし、AIに小説を書かせるでも良い。とはいえ、なんだかそのプロジェクトを立ち上げる意思も失われている。結局は堂々巡りだ。
AIが有益なことをしてくれるのであれば、自分は楽しめば良い。しかし、楽しむとはどういうことか。それが良く分からなくなっている。
楽しむとは?
物事を楽しむとはどういうことなのか? そこのところがいまいち分からなくなっている。自分が法則型であるということを踏まえると、通常の楽しみ方では方向性が違うのかもしれない。
たとえば、ゲームの考察情報は楽しむことができる。前は楽しめたが、今は楽しめなくなってしまったものもたくさんある。いま現在楽しいことはなんなのか? そこが分からなくなっているんだと思う。
まあでも、そんなものは元々無いのかもしれない。楽しいという概念そのものを捉え直す必要があるかもしれない。しんどい思いをすればするほど楽しいという場合もある。AIによってしんどい思いをしなくて済むようになった結果として、同時に楽しいも失われたという見方もある。